HISTORY
倉品鐵工は、新潟県のほぼまん中、長岡市の北西に位置する与板町にて昭和 21年に創業致しました。
戦後〜経済成長期、バブル崩壊と平成、そして令和へと時代の波に揉まれながら奮闘する地方の小さな鐵工所の物語です。
倉品鐵工は、新潟県のほぼまん中、長岡市の北西に位置する与板町にて昭和 21年に創業致しました。
戦後〜経済成長期、バブル崩壊と平成、そして令和へと時代の波に揉まれながら奮闘する地方の小さな鐵工所の物語です。
倉品鐵工は、新潟県のほぼまん中、長岡市の北西に位置する与板町にて昭和 21年に創業致しました。
戦後〜経済成長期、バブル崩壊と平成、そして令和へと時代の波に揉まれながら奮闘する地方の小さな鐵工所の物語です。
多大な犠牲と苦しみを経て、敗戦のショックがまだ色濃く残る世情の中で海軍からの復員後、倉品徹治は長岡市大島にあったN製作所に1年ほど勤めた後、自宅の庭に9坪の工場を建て創業を果たした。長岡空襲で焼失を免れた英式旋盤1台と枝型ボール盤1台。
長岡からの砂利道を牛に荷車を引かせ1日がかりで運び入れたのである。
創業はしたものの、これといった伝手(つて)もないので、しばらくはN製作所の下請をしていた。一方で当時の与板は戦災復興による住宅需要から大工道具が大量に必要とされその生産者である鍛冶屋は大忙しであった。
こういった背景からやがて鍛冶屋向けの仕事をする様になり、少しづつ得意先が増えていった。この時に、若年の倉品徹治を人生の先輩として、人としての生き方や助言をし、仕事や人脈の紹介などを通して、温かく見守り育ててくれた人が何人かおられた事が後々仕事上の基盤となったのだと、後年しみじみと語っていた。
創業からほぼ10年が経過し、岩戸景気、神武景気などの好況と、その反動による不況を経験しながら自分なりの立ち位置と将来の展望をした時、鍛冶屋の便利屋としての存在では生き方として、情けないと思うに至った。
業界の内情を知る者として、何をすれば歓迎され求められるのかと考えた末に、切断機を作ろうとの想いが強く湧き上がってきたことは必然であった。
鉋(かんな)と鑿(のみ)が、鍛冶屋の作る主なものであるが、素材として鉋は板、鑿は棒の定尺を使い、それぞれの形に鍛造していく工程のなかで、いの一番にコークスで赤く熱した鉄を金床にのせ「セギリ」というタガネを当てて、鉄ハンマでたたき切る工程が欠かせない(材料切断)。
親方が「セギリ」を当て、弟子がハンマをふるう。弟子にとっては非常に疲れる仕事であり、この人力による作業を機械で置き換えたらどんなに喜ばれるだろうか。
考察から構想へと想いを巡らせたのち実現化へ向け、どのような条件を満たせばよいかと考えた末、①切断機そのものはすでに世の中に広く出回っているもののそれらはオーバーサイズである②購入価格が高い の2点に注目しての設計が必要である。その結論をもとに、
(イ)機械本体とモーターベース、従動ギアの3点は鋳造品を使用
(ロ)歯切は外注依頼
(ハ)モーターは購入とし、機械加工および組立調整はすべて自分で行う
と決めたのである。ここで鋳物は長岡市中島4丁目のK鋳造所(創業社長は与板・堤下の出身で大変良くしてもらった)。歯切りはK氏の紹介で長岡市城岡1丁目のK農機でやってもらった。モーターは三条のM社からの購入(従来から取引があった)。
試行を繰り返し、昭和34〜35年頃に、第1号機は完成した。
1号機の搬入先は町内のK製作所であった。
導入結果は狙い通り大変な好評であり、構想時の想定が間違っていなかったことが証明されたのである。
K製作所の紹介で、同所出身の弟子、その友人など口コミで、次々と購入してもらう事態に発展し、全く営業なしで、昭和49年に生産停止する迄に130台弱の生産を果たし、東北の青森岩手・山形・東京・種子島に至るまで多くの鍛冶屋から「セギリ」の苦役を解放して感謝されたことが、何よりも喜ばしい事であった。
切断機製造により経営基盤が固まってくる中で、より大型で強力な切断能力をもった機材を求める声が出てきた。要望を集約して、設計したのが20TONクランクプレスである。
昭和37年に初号機は完成した。従来機にくらべ、より肉厚な材料切断が可能であり鉞などの肉厚鍛造品の折り曲げ、角穴の目打なども行えるという機能から大物大工道具を作る鍛冶屋からは好評を得たのである。
ただこのクラスの鍛冶屋は、鉋・鏨の鍛冶屋にくらべ少数であり、結果として30台弱の生産であった。
切断機・クランププレスの製造で多忙な状況ではあったが、鍛造品質の向上が必然的に求められることとなり、型打鍛造用の金型加工を手がける事となった。
正確な金型を用いての鍛造により、仕上修理の手間を減らし、製品寸法の均一化が図られる様になり、新作、修理、改造と一層多忙な状況を迎えるのである。
新潟の片田舎。
小さな町の零細企業にも、戦後の高度経済成長の恩恵は確実に及んできた事はまぎれもない事実である。昨今の世の中とくらべ、格段によい世の中であったといえるが、しかし、何もしないでも良い事が誰にもあったかといえばそうではないと考えるのだ。
戦後の混乱した状況下で、先の見えない創業。
立派な先達の指導と支援のもと、自らの仕事に誇りを持ち、何が求められどうしたら応えられるか常に考え一本の道を迷うことなく、懸命に『挑戦』し続けてきたからこその成果なのだという思いが強い。
零細企業といえども、眼の前の課題解決と将来に向けての夢を積極的に『挑戦』しつづける事が世の中から認めてもらえる大切な言葉であり、社訓としている所以である。
多忙を極めた状況のなか、倉品徹治は長男 明彦の後継意志を背景に、狭い創業地から新工場を建てるべく行動を起こした。縁あって現在地、長岡市与板町東与板323番地に90坪の土地を購入(与板町南中S氏所有畑地)、建屋は長岡市堺町Y製作所が請負って、昭和44年8月完成した。現在の第1工場である。
新工場への移転により、天井クレーン設置等も含め組立作業の能率向上と、旋盤やフライス盤、型削盤(シェーパー)、立削盤(スロッター)など設備機械の増設で部品加工の能率と品質の一層の向上が実現した。創業地が狭く、できなかった諸々の課題が、移転により一挙に解消し、従業員も3名となり、順調なすべり出しであった。
一方、わが国は、岸内閣の日米安全保障条約締結により戦後復興に区切りをつけ、続いて登場した池田内閣による所得倍増計画で、日本は豊かな国へ大変貌を遂げる様になったのである。
これは、人々の暮らしにも大きな変化をもたらし、住宅建築の現場においても、電動工具の出現で鉋や鑿の出番が、ほぼ消失する事態を招くことになった。
「禍福は糾える縄の如し」とはよくいったものである。
地場産業に大きく依拠(いきょ)していた倉品鐵工所も顧客基盤の崩壊により、大きな痛手をこうむる事態に直面した。変化に追随できなければ消え去るのみという冷徹な現実を何としても回避しなければならない。そんなある日与板町のKBS電気の社員であるNT氏が訪ねてきて、ある部品の加工依頼をしてきたのでる。話の内容はO社向け電装部品に組み付ける部品が調達できないので作れないか?というものであった。NT氏の妻は倉品家の親類なで、その縁を頼っての訪問であった。
技術に自信と腕を持っている倉品撤治は、それに応じ、KBS電気を通じてO社の仕事に関わることとなった。業容の拡大に伴い、有力な協力工場を探していたO社外注部門が当所の存在を知り、直接取引の申し入れを行ってきたのである。これを契機に、倉品撤治は大きな決断をした。地元の仕事から撤退し、O社下請へ転進すると。
口でいうのは簡単でも、従来の顧客からの非難、苦情は当然あったのだが他の鉄工所への転換をすすめる事により、乗り切った。一方O社への参入については、「ギルド」とか「座」といったようなはっきりしたものではないが、先入業者から新規参入者への警戒感があってなにかと、やりにくい状況が続いたものの、ひとまず仕事がなくなる危機を回避できたのである。
まさに「禍福は糾える縄の如し」を地で行ったようなもので、世の中捨てたものではないなとしみじみ感じたことであった。
さて、第2創業(業態転換)を決意し、転進をしてみたものの、先行下請専業者との設備能力差は大きく付加価値の高い仕事は与えてもらえなかった。当時の発注内容は倣い装置の内部部品加工が中心で、まさに糊口をすすぐといった程度のものであった。そういったなか昭和49年4月から長男明彦が、満7年勤務したN社を円満退社して、いよいよ稼業に就くことになった。
7年間のキャリアは、圧延機、レベラー、プレスなどの金属加工機械、石油鑿井(さくせい)機、射出成型機の組立、機械工場でのケガキ作業、射出成型機のS Eと試運転検査などであり、勇躍家業についてはみたものの、大企業との落差に愕然としたのを覚えている。
昭和40年代における部品加工の現場では、旋盤やフライス盤での1次加工のと、穴明けや切欠などの後工程部分は「ケガキ」によるマーキングをして、位置を指示してから加工を行うのが一般的であり、一方大量生産部品には治具をセットして加工する形態もあった。N社での「ケガキ」作業の実務経験が即生かされることになり、その後、未経験であった穴明け作業やフライス作業に取り組んで、実績を積み重ねる事となった。
N社勤務の7年間は明彦(以下2代目という)にとって、実に様々な経験と試練を与えてもらうことができ、就職の糸口をつけて下さった恩師GN先生、こころよく受けいれて下さったN社O工場長はじめ多くの人々に心からの感謝の念を禁じ得ないのである。
2代目が家業に就いた昭和49年は、前年に第1次オイルショックがありその後の第2次オイルショックもあって、石油価格の暴騰からの大不況下にあった。取引先のO社も甚大な影響を受け、多数の人員整理を行うなどまさに戦後に続く激動の時代とも呼ぶべきであった。
発注先の人員整理、同業者の倒産・廃業などを目にして「板子一枚下は地獄」という言葉がまだ若年の2代目には身に沁みて感じられはしたものの、鈍感力が強いせいか、そのうち何とかなるだろうと気楽に思っていたのも事実である。
大不況下にあって姿勢を低くし、一方で貧欲に加工技術の修得に打ち込んだ。
O社の現場に行き、様々な加工機械で作業するベテラン作業者のうしろに立って加工品の取付状態・使用工具・切削条件などをじっくり観察し、時には加工上の重要なポイントや能率を上げるための工夫などを質問した。はじめは不審視されたが、やがては心を許して何でも教えてくれるようになり、その後の2代目の実力向上に大きく寄与する事となった。
そうこうするうち、世界経済も安定をとり戻し、そんな中、工作機械業界も「糾える縄の如く」再び活況を呈してきたのである。
それは、工作機械のNC化がもたらした状況であり、大げさにいえばたちまち世の中の工作機械がNC工作機械に置き換わるという情況だったのである。
この変化に追随しなければ、明るい未来はないと決心した2代目は、昭和55年に「新潟県近代化資金」の借入をもとに、森精機MHー1500(8尺旋盤)と、小川鉄工所HOR−1400(ラジアルボール盤)を設備し、弱点であった汎用旋盤と穴明け能力の増強をはかった。
この設備投資は、取引先からは、それほど高く評価してもらえなかったのである。
せっかくの設備投資なのになぜNC機にしなかったのかと。2代目は、NC機が素晴らしい能力をもっていたとしても、まだ黎明期にあるNC機は使い勝手が悪く価格も高すぎる。
もう少し待っても遅くないと考えていたのである。
とはいえ、時期を失すれば仕事がなくなるのも明らかな事であり、かねてより温めてきた構想を実現すべく昭和57年大隈鉄工所LSーN1500(NC旋盤)を導入した。
多品種少量生産の受注形態の中で採算上は非常に厳しかったが、属人性の強い難形状のものなど様々なパターンの旋盤加工をこなせる様になり、今度は取引先からの評価も高くなり、仕事量も増大した。
「泣こよかひっ飛べ」鹿児島県のことわざだそうだが、時期を逃がし、後退する事なく攻めの姿勢で望み、まずは当面の取引先での不動の地位を築こう。そして力を蓄えて広い世間に存在を認めてもらおう。2代目はそのように決意し覚悟をもったのである。
昭和55年、K社より、自社設備のタレット旋盤を貸与するので、仕事とともに引き受けてもらえないかとの話が持ち込まれた。ビジネスとしては、食指が動くようなものではなかったが、取引先を増やすという点では、よい事と考え、応じることとなった。
昭和60年 OKK NCフライス盤MHAー400、昭和62年同社、MHAー400Ⅱを設備し、フライス加工の強化をはかり、これが利益の向上に大きく寄与することになった。
昭和63年、O社営業担当のS氏が突然訪問してきた。
自分が売った機械が生産着手後、キャンセルされ、困っている。何とか引き受けてもらえまいかという事であった。
これ迄の設備投資による返済もあり、この話には簡単に乗る訳にはいかないから、お引きとり下さいと断ったのである。断ったのであるがしかし、S氏も滅茶苦茶粘る。手を変え品を変え、導入のメリットを説き決断をうながすので、ついに根負けする事態となった。取引業者への売り込みなのに、応分の仕事については確約せず「努力してみます」という位のことで、これでは話にならないなと今度は、本気で断るつもりでいたところに、当時のO社工場長T氏が「倉品君うちの機械買ってくれて有難う」といわれてしまった。
後で考えてみれば「ハッタリ」だったのだが、立場の弱いこちらとしては応じざるを得ず、ついに売買契約書に判を押したのであった。
取り組む仕事のアテはないが、昭和63年10月にVL-6NT(立型NC旋盤)は据付完了した。
最大径600mmの加工能力を持つこの機械はツボにはまれば大いに役立つが都合の良い仕事がやたらにある訳ではない。本来の立旋盤に適した仕事ではなく他人がやりたがらない加工を行う事にしようと決心し、そこでひらめいたのがK社である。タレット旋盤付きの仕事の不採算には困っていたので、この仕事と手を切り、この立旋盤が活用できる仕事に変えてもらいたいと申し入れを行ったところ、大型の旋盤加工品の調達先を探していたということもあってこれを了承してもらいうまい具合に進展した。こんな経過をたどってVL-6NTは稼働を始めたのである。
自分の判断ではない形での設備ではあったが、一方でO社は立旋盤の刃物台をタレット旋回型から、ラムATCタイプに構造を変更する決断をした。タレット旋回型は加工品と隣接工具との干渉に難があり搭載工具にも限度があったので、干渉がなく多数の工具が搭載できるラムATCタイプはユーザーから歓迎され、ヒット商品となった。このため「VL-6NT」の活用ができるようになり、「縄」は再びこちらに「福」をもたらしたのである。
仕事に励んでいるなかで、昭和60年11月、新潟県商工会連合会により「モデル工場」に指定された。
地元商工会経営指導員のY氏による推挙があっての事なのだが、小規模事業者のモデルにふさわしい存在として認めてもらい面映ゆい気もしたが、更なる飛躍を目指したいとの思いを一層強くしたものである。
平成2年9月にファナック製ドリルメート(小型マシニングセンター)を導入し、穴加工の能力を強化した。
これにより順調に売上が伸びだしてきたところで、上記Y氏により、法人成りを勧められたのである。「大いなる個人」で不足はないと思ったが、対外的な信用や経営上の数値明確化などここに至る迄念頭になかった点を指摘され、あわせて税理士AT氏を紹介されて、平成3年3月有限会社倉品鐵工として、新たなスタートをした。鋸の刃の如く、再び不況がやってきたが、これを耐え頑張っていたところで、平成8年8月に創業者より代表者引退を告げられ、同11月2代目が代表者に就任することとなった。
創業者と23年間の併走期間を経過しての交代であったため、経営の方向性や課題など含めすべて円滑に引き継いだのである。対顧客への信頼性(加工技能の向上、納期順守など)向上と収益の確保、財務基盤の健全性維持を胸にし、その為にまずは最適な設備投資が必要との信念から、平成9年3月OKK、VM-4(立型MC)、平成11年9月大隈鉄工所、LB400(NC旋盤)、平成17年9月OKK、VM-5(立型MC)、平成19年9月オークマ、LB4000EX(NC旋盤)と設備投資を行った。
就任時の財務基盤の健全性の観点からは矛盾する行いではあったが、「若さ」で全力走ができたのだと思っている。以降、これらの設備が稼働し、存分に活用できている事を何よりも嬉しく思っている。
平成23年4月、3代目次男英行が入社した。
長岡高専・長岡技術大からM社勤務5年を経てのことで、以降2代目とともに、仕事に打ち込んでいる。M社時代は、金型製作について研鑽を積んできたため、切削加工について共通することが多く、倉品鐵工の本業にとけこむのに多くの時間を必要としないで済んだことは大変よかったと思っている。
リーマンショック後の大不況の影響で、経営的には厳しい状況下ではあったが、現実を直視し、次の飛躍にそなえて力をたくわえるのに、この不況は良い事でもあったと感じている。
そんななか、平成26年秋の事である。
現在第2工場の敷地は安永町KO氏の所有であったが、これを売却したいとの話がやってきたのである。第1工場は設備機械が場所を占有して、動線の確保もままならない状態となってしまっていて、業容拡大は無理な状態であったが、こちらも不況が続くなかで、簡単には乗りにくい話ではあった。
しかし、2代目には、入所以来40年間温め続けて来た想いがあった。
それは創業者がやった事と同じく新しい工場を建てたいという想いである。
その際、となりの畑地はうってつけの物件と思い、以前にもO氏に意向を打診はしたのであるが、農家の人は農地を手放すのを本能的に嫌うということもあり、進展する事はなかった。それが、逆に回ったのである。更に追いかけて新潟県の「フロンティア資金」を使っての融資にのりませんかと、当時の北銀Y与板支店長が訪ねてこられた。この時2代目の脳内に閃光が走ったように感じた。
「チャンス到来」とはまさにこの事だ。
「40年来変わることなく温めてきた想いを今、現実のものにするのだ」と決断し、O氏とは相対での売却交渉をとりまとめ、Y支店長のスピーディーな融資実行により平成27年3月、第2工場が竣工した。建築は、長岡市希望が丘S社が担当してくれた。
諸手続きとコンクリートの乾燥を済ませ5月より第2工場の操業を開始し、2代目の想いは、現実のものとなった。この時2代目は67歳であった。
何人にも人生には必ずチャンスは巡ってくる。その時確実にそれを手にするかどうかはその人の生き様による。第2工場の操業開始以来、リーマンショックの「禍」から再び縄目は「福」に転じ、工作機械業界に好況が訪れたのはありがたいことであった。
令和2年春、世界はコロナウイルスによる激動の時代を再び迎える事になった。適者生存。変化する世の中に追随して生きて行かねばならない。
デジタル化、IT化、ロボット化など様々な言葉とともに、変化する状況が垣間見える昨今ではあるが、我社が進む方向はこれらを取り込みつつも、ものづくりに生き世の中に存在を認め続けてもらうべく、本来の道を歩んで行くのである。